土曜日, 8月 08, 2009

雨の本栖湖ツアーと太宰治と村上春樹

先週、本栖湖へは、車で若い輩と相乗りしていった。私が運転して、その輩は助手席。

本栖湖まで2-3時間だから、相乗りして会話がはずむのならそのほうが楽しい。

行くときは、期待感が先行して、楽しい話題が先行する。

帰りは、現実先行だ。明日の仕事、帰ってからやらなきゃいけないこと、渋滞の心配・・・・・・。吹いてウィンドサーフィンを楽しめたのなら、その会話も楽しく盛り上がれるかもしれない。でも、雨で消化不良・・・・。

帰りの車の窓には、容赦なく雨がたたきつけられる。富士あたりだと、いつも聴いているFM横浜は受信できないから、手元のCDを聴いている。この日はマイルスデイビス。

「ジャズって雨の日にあうんですね」助手席の輩が言う。

確かにそう思う。


ふと、その輩が、太宰治の話題をもちだした。

「「人間失格」って本知ってます?最近その本読んだんですよ」




太宰治だろ?高校の頃読んだよ。ひたすら、くらいだろう。あまり好きになれなかったけど、その本の中のほんの一言だけ覚えている。『もはや、完全に人間でなくなりました。』ってセリフ」と答えた。

「あれは、高校生で読んじゃいけないですよ。モルヒネうったり、・・・。」といくつかの本の中の、非道徳的な部分を上げながら、若い助手席の輩がいう。確かに、青少年に育成すべき健全な精神からはほど遠いように思える。でも、人の心がもつネガティブな面、ポジティブな面を知ることも成長の機会とも思える。

「なんで、また、今ごろそんな本読んでるの?」

「友達に薦められて・・・。面白いっていうから、読んでみた。読みやすかったし。」

・・・・・・・・

太宰治なら、『斜陽』を読んでみたら?。すごいなっと思ったよ」




いくらか、太宰治について、会話した後、「斜陽」という本を勧めてみた。

正直言って太宰治なんて高校生で読んだっきりだ。自分の人生に大きな影響を与えた古人といえるのかもしれない。

当時「斜陽」を読んで、深い感銘を受けた。時代の変化から、社会の中で「斜陽」する貴族階級層。その階級に生まれ生きていくことを運命に義務付けられた人たちの生きざま、そしてゆるがぬプライド。そのスピリッツは、いまだに心に残っている。


と、今度は、村上春樹の本って読んだことあります?っと助手席の若い輩が聞いてきた。

「うん、大学生のころ、彼の著作を読んで、当時すごく感動したよ。」

少し世代ギャップを感じているようだ。彼にしてみれば、今とても話題になっているから、読んだというのだろうが、私が答えた内容は、ずーっと昔の話だ。

「その時『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』という本を読んでね。






その本にすごい感銘をうけて、そのあと、彼の別の著作『羊をめぐる冒険』っていうのを読んだんだ。いやー、すげえ、ってぶっとんだよ。」と助手席の輩に話してみる。






そして「でも、その後、『ノルウェイの森』っていうのを読んで、それ以来読まなくなったね。世間的にはその作品が村上春樹の出世作だったんだけどね。」と続けてみた。

彼は、「ノルウェイの森」という本を読んだということだった。


ノルウェイの森」が刊行された当時は、本格的な純文学として絶賛されていたよと話した。






個人的に村上春樹に期待していたのは、なまなましい恋愛物語というよりは、そういう人間の感情や現実の生活感そして行動を、まったく日常感のない別の世界の中に再構成して見せる感覚だった。たとえばサルバドール・ダリの絵を見ているようなかんじ。


ノルウェイの森」を読んだときに感じたのは、どちらかというと現実的ななまなましさだった。だから、その後、読もうという意欲が失われてしまったような気がする。そういえば、「ダンスダンスダンス」は上巻で挫折。「海辺のカフカ」は、タイトルは気になるものの、よんでいない。


太宰治は今年生誕100年。
村上春樹は昨年ノーベル文学賞候補。

助手席の輩にしてみれは、時代の話題に乗って読んでみたということだろう。
私にとっては、名作といわれる本が、世代を結び付ける力があるのだなあということが発見だった。


雨の本栖湖。

ウィンドサーフィンを楽しめる風は吹かなかったけど、心の旅にはなっていたようだ。