5月3日は、ゴールデンウィーク二日目。
芝桜祭りの渋滞は、ある程度用意してはいたが、ここまでひどいとは思わなかった。
17時43分頃の、状況。
ウインドサーフィンは結局断念。
54くらいで走る、いいコンディションだつたらしい。
どこの海に行っても、ウィンドサーフィン楽しめるといいですね。
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5月3日は、ゴールデンウィーク二日目。
芝桜祭りの渋滞は、ある程度用意してはいたが、ここまでひどいとは思わなかった。
17時43分頃の、状況。
ウインドサーフィンは結局断念。
54くらいで走る、いいコンディションだつたらしい。
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ポーラ美術館初の日本画展となる本展覧会では、収蔵作品の中から約120点を1期・2期に分け、当館の日本画コレクションを総覧いただきます。なかでも43点を数える杉山寧(1909 - 1993)の絵画コレクションは日本最大級のもので、見どころのひとつです。
展覧会では、日本画の近代化に尽くした横山大観(1868-1958)をはじめとして、叙情的な作風でヨーロッパ風景を描いた東山魁夷(1908-1999)、人間の精神性を追究した髙山辰雄(1912-2007)、写実と抽象を組み合わせた構図や厚塗りのマティエールを追究した杉山寧、仏教伝来とシルクロードをテーマに描き、文化財保護にも尽力した平山郁夫(1930-2009)などの作品を通して、現代日本画家の造形上の実験と今後につながる可能性を、今あらためて捉えなおすことを企図しております。
出品作家: 横山大観、川合玉堂、小林古径、安田靫彦、前田青邨、福田平八郎、徳岡神泉、山本丘人、東山魁夷、杉山寧、髙山辰雄、加倉井和夫、横山操、平山郁夫 (生年順)
展覧会は4つのセクションに分かれ、現代日本画への序章となる第1部「横山大観とその周辺」、コレクターが最も力を入れて収集した杉山寧を特集する第2部「杉山寧『純粋絵画』への道」、第3部「東山魁夷と日本画の叙情」、第4部「平山郁夫 源流を求める旅」から構成されます。
日本画における『写実』とは何か?」明治期に「日本画」という言葉が生まれて以降、画家たちは洋画との確執の中で、この問題に対峙してきました。横山大観(1868-1958)が試みた没線描法は、伝統的な日本画に欠かせなかった輪郭線を排除し西洋の空気遠近法に倣ったもので、見慣れない描写に抵抗をもった評者から「朦朧体」と揶揄されます。
小林古径(1883-1957)、安田靫彦(1884-1978)、前田青邨(1885-1977)は、日本画における「新古典主義」を確立した画家として、主題、技法のいずれにおいても伝統を踏襲する一方で、大胆に分断された構図や抽象表現の萌芽をみせ、近代的な展示空間にふさわしい日本画のモダニズムを模索しました。
東京美術学校在学中に帝展(帝国美術院展覧会)に入選し、さらに美校を主席で卒業した杉山は、新進気鋭の若手画家として華々しく画壇にデビューしました。そして厚塗りの堅牢な画肌を編み出し、抽象的な形態を主題として、伝統的な「日本画」の概念を覆すような制作を始めます。やがて杉山は、色面構成のように抽象的なモティーフを組み合わせた背景に、細密に描写した花鳥を配する独自の画風を打ち立てました。
彫刻は、その昔、権力者や資産家が自分の力を世間に誇示するために作っていたものらしい。要するに権力や富の象徴。だが、やがてその地位は絵画にとって代わられる。絵画は、より手軽に生産できたため、量産され、多くの人に親しみやすい自己顕示欲の表現の機会となった。これにより、権力や富を誇示する役割としての彫刻は衰退していったという。
19世紀になって、再び彫刻を美術の表舞台に引っ張り出したのが、オーギュスト・ロダン。ロダンの「考える人」という作品は有名だ。ロダンはそれまでの彫刻になかった二つの意味を彫刻に与えた。まず、人間の内面を表現したこと。そして、彫刻に深い陰影を与えて光と影の効果を与えたこと。これらの効果により、写実的表現では外観しか表現できなかった内面を表現することに成功したらしい。
確かに、ロダンの「考える人」 を見ると、「あ、この人何思いあぐねているんだろう?」と思う。人間の内面を表現しているとはこのことか。そして、確かに、なんだかごつごつしている。現実にはこんなにごつごつした人はいないのだが、そのごつごつ感から影が生じ、深い物思いを感じさせているのは間違いない。
彫刻にとっては、新しい表現形態。新しい社会的意義を持つ可能性がでたわけだ。面白いことに、これをきっかけに、彫刻家になりたいという人が多くでてきたという。そして、彫刻界は再度日の目をあびる。ロダンは、彫刻界に新しい息吹を与えたというわけだ。
彫刻の森には、ロダンの「バルザック像」がある。ブロンズ像は複製が作られるらしい。ここのバルザック像は正規の手続きを経て複製されたものだ。つまり、世界にはいくつかのバルザック像があり、ここにはその本物のなかのひとつがある。
だから、入館料は決して高くないのだと案内員は言っている。確かに、本物を拝めるのだから、決して入館料は高くない・・・・。
続いて、ヘンリームーアの「横たわる像、アーチ状の足」の像の前に行く。ここでは、抽象化という話をしていた。形を一度抽象化して、製作者の意図をより明快に表現するということだ。ロダンの場合、像に深い彫り込みを与えてでる光と影の効果によって、人間の内面も表現した。これも一種の抽象化だ。ヘンリームーアの場合、自然界の形をアトリエに持ち込んでそれを熱心に研究して形を作っていったという。人の彫刻を作る時、人そのものの形を写実的に正確に表現するのではなく、一度、自然界の中の形に置き換えて単純化・抽象化している。その形と穴や隙間あるいは彫りのもつ緊張感で、表現しようとする。
案内人はブロンズ像の複製の見分け方を教えてくれた。ブロンズ像は、鋳型にブロンズを流し込んで作るために、複数の像を作ることができる。ブロンズ像の一角にかならず作者のサインがあり、そのあとに2/6のような数字をみつけることができる。これは、作成時に6体作られたものの2体目という意味だそうだ。また、その下にどこの鋳造所で作られたか、その場所を記銘しているという。
その次には、伊藤隆道氏の16本の回転する曲がった棒という作品のところにいく。案内人の話によると、作者の作品への思いは、見る人の心が世俗の悩みから解放されることを望んだものだという。
工業の発達とともに、新しい材料ができてきた。古くから伝わる彫刻の材料ではできなかった表現を、新しい材料でできるようになった。この作品は、そんな新しい表現の例。ステンレスは、彫刻界においては、その加工性と質感から、革命的な材料であったらしい。
最後はジュリアーノ・ヴァンジの「偉大なる物語」。彫刻の森美術館のために作られたものだという。場所も決められて注文されたそうだ。白く美しく柔らかい面をもっている。だれもが、きれいでいいなと思うだろう。順路に従ってその作品に近づくと、まず、作品の横側にたどりつく。そこには、だんだん細くなる洞窟状の形状が表現されている。その入り口には樫の木が生い茂っている。樫は若い時の可能性と生命感を表しており、次第に、せまくなる洞窟は人生をあらわしているという。さらに順路の道を進むと作品の正面にでる。その壁面には女が風のように現れ、そして男が悩ましげな表情で中央でうずくまっている。そして、さらに歩いて行くと、作品の別の端にでて、そこにはりりしい男が一歩一歩を歩んでいるというものだ。
案内人の話によるとヴァンジが表現したかったのは、現在の男の人生ということらしい。若き日にさまざまな可能性を与えられるが、狭き門をくぐりぬけねばならない。その過程で男は思い悩むものであり、様々な女性がそのわきを去来する。だが、最終的には、社会のさまざまな重荷を背負ってりりしく社会をひっぱっていくものである。そういうことを表現したかったらしい。
案内人はこの話をしても、女性にはあまりわかってくれないといっていた。一生懸命、自分が言ったわけではなく、ヴァンジの言ったことだと説明していた。